歴史

徳賞寺の歴史

盛景寺末、永禄六年(一五六三)粟屋越中守勝久が開基である。

天文年間に沙門祐者という者が結んだ徳賞庵を永禄六年に勝久が陽光山徳賞寺として改造し、越前の盛景寺八世機山祖全を招いて開山したと伝わる。寛永年間に火災に罹り、慶安元年(一六四八)より再建、宝永二年(一七〇五)十一月に堂宇が完成している。

現在の本堂は寄棟造、桟瓦葺、平入り、桁行八間半、梁間七間で、三列六室構成、前方に八尺間、一間幅の土間をとる。
禅宗本堂の典型的平面構成で、右手に二室構成の座敷があり、そこから鉤の手に庫裏がつながる。
背後には位牌、開山堂を張り出している。

以前の屋根は芽葺きで、柱頭に舟肘木を置いて桁を支持していたが、瓦への葺き替えの際、旧桁の上に束をたてて五十センチほど嵩上げした。 このことは旧桁や船肘木が今もそのまま残っていることからわかる。
また芽葺時代の様子は、大塩家所蔵図でも確認できる。

内陣両脇の柱の後面に貫の痕跡があり、元は後方一間が壁であった。
さらに内陣側の柱面に現床高約五四~五八センチの高さに框の仕口跡があり、旧は内陣後方の一間分に仏壇がとられていたことがわかる。
こうした内陣の古形式は先の龍澤寺本堂にもみられた。この内陣も含めすべての室が棹縁天井である。建築年代の確証は得られないが、様式的にみて江戸時代中期まで遡るとみられ、寺伝の宝永二年(一七〇五)としても大過ないであろう。 ただし、八尺間と土間境の二本の欅柱など、部分的に後に改修されたことがうかがえる。大間両脇の鴨井上の虎と竹の彫刻欄間には「大工ワダ武永弥左衛門」(向かって右)、「作人 和田村弥左衛門」とある。この和田村武永弥左衛門は、庫裏や山門の天保十二年(一八四一)の庫裏と山門の棟札にみられる武長弥左衛門であろう。この欄間は周りの柱や長押、鴨居などと比べれば一見して新しく、庫裏と山門が造営された際(天保十二年)に補加されたとみることができる。 本堂の背後につながる位牌・開山堂は棟札から明治十七年(一八八四)の再建である。 本堂の→に続く庫裏は、切妻造、桟瓦葺の建物で、棟札により天保十二年(一八四一)五月に再建されたことがわかる。桁行十三間、梁間五間の大規模な庫裏で、登梁を用いている。

前方は骨組みを残しながらもギャラリー、展示スペースに、また現代の生活用に大きく改修されているが、後方の四室構成の座敷は昔の面影をよく留めている。

山門は入母屋造、桟瓦葺、一間一戸の楼門である。上層に比べて下層がやや小さめだが、下層の頭貫の獅子頭の木鼻や虹梁の絵様、上、下層の組物などは上質である。小屋裏に天保十二年(一八四一)の棟札が残されており、庫裏と同じ時期に再建されたことがわかる。なお、梵鐘には貞享三年(一六八六)の刻銘がある。この他、山門の左手にある土蔵も江戸時代まで遡るとみられる。 このように当寺には江戸時代の建築が多く現存している。また本堂の左手、庫裏と対するように禅堂とみられる建物があって、本堂を中心にコの字型の構成をもつ禅宗寺院の伽藍配置の様子も比較的よく留めている。

ふるさと昔よもやま話(79)より

福井県内で開催中の『幕末明治福井150年博』。
若狭国吉城歴史資料館では、10月20日(土)から同博関連企画展(後期)『幕末佐柿と水戸天狗党』を開催しています。

19世紀以降、異国船の来航が頻繁になると、幕府や海岸を持つ諸藩は「海防」意識が高まり、各地の海岸や港に台場や砲台が築かれました。小浜藩でも、日本海に面する長大な若狭湾の各所に築いています。
美浜町域では和田や早瀬に台場が築かれ、一朝有事の際は、佐柿陣屋(享和3年(1803)、「町奉行所」から「陣屋」に改める)から出兵することになっていました。

しかし、ペリー来航とその圧力で幕府が開国に踏み切ると、開国を批判する人々は、朝廷(天皇)を尊び、諸外国を打ち払う「尊王攘夷」を旗印に、幕府を支持する「佐幕」派と激しく対立するようになります。一方、福井藩主松平春嶽等は、朝廷と幕府が一体となって難局に当たろうという「公武合体」を模索します。その三つ巴の動乱に佐柿も関わっていくのです。

元治元年(1864)、尊王攘夷現実のため、常陸国筑波山で挙兵した水戸天狗党(水戸浪士)は、関東を脱して京都に滞在する一橋慶喜(水戸藩出身、後の第15代将軍徳川慶喜)に訴えるため、京都を目指しますが、幕府軍の追撃を受けて越前国敦賀の新保宿で加賀藩に降伏しました。この時、小浜藩は敦賀包囲の兵の他、佐柿陣屋に後詰の兵を配置していました。

幕府に引き渡された水戸浪士らは、苛烈な扱いを受け、慶応元年(1865)、首領の武田耕雲斎以下353名が斬首となり、137名は遠島、その他は水戸藩預けや追放の処分が下りました。

遠島の者は、敦賀で謹慎していましたが、翌年沙汰止み(中止)となり、小浜藩に預けられました。藩では、浪士らを藩士同様に扱い(准藩士)、佐柿陣屋の門前に屋敷を新築して移しました(准藩士屋敷)。 浪士らは、佐柿で1年弱程ですが平穏な時を暮らし、慶応4年(1868)、朝廷より水戸帰藩を命ぜられました。最近、酒井家文書の水戸浪士関連文書の解読が進み、佐柿に滞在した浪士たちの様子や小浜藩の対応、佐柿に来てから亡くなった浪士3名が徳賞寺に葬られたこと等が明らかになりました。 今季企画展では、小浜藩の海防と佐柿陣屋の役割、敦賀で降伏した後、佐柿にやってきた水戸浪士たちの動向等を文献資料等でご紹介します。

(若狭国吉城歴史資料館)

国吉城主粟屋越中守勝久

粟屋氏は、武田氏の古くからの重臣で、「武田四老」に数えられる名門でした。

若狭武田氏6代信豊が武田家を継ぐことをめぐって、粟屋家の当主である元隆は天文7年(1538)に反乱を起こしましたが、敗れて国外へ逃れました。 当時の元隆の所領は、遠敷郡名田庄や宮川などでしたが、反乱鎮圧後に取り上げられました。 粟屋勝久はその後に粟屋家の後継ぎとなったと思われ、佐柿とその周辺を治め、国吉龍城戦では見事な戦いで有名になりました。生年は不明ですが、天正13年(1585)2月18日没と伝わり、勝久が開いた徳賞寺(佐柿)に墓といわれる五輪塔が残っています。

徳賞寺に残る五輪塔

若狭口を守る国吉城

国吉城は、若狭と越前の国境の「境目の城」として、常国国吉が築いた古い城跡を利用して弘治2年(1556)に勝吉が築城したといわれます。 越前国から若狭国へ入るには、多くの山々、峠を越えなければなりません。この城は、若狭国の東境を守る天然の要害(攻めにくい地形)として丹後街道と椿峠を見下ろす位置にあり、機織池を天然の堀として、標高197.3mの城山に築かれていました。 城山の最高所である本丸跡は大変見晴らしがよく、山肌は滑りやすくて登りにくいことから、少数でも守りやすく、大軍でも攻めにくい、需要な砦でした。

乱れる若狭国

粟屋勝久が国吉城を築いた弘治2年、若狭武田家では6代信豊の後継ぎをめぐって再び争いが起きました。信豊の長男の義統派と、義統の弟に継がせたい信豊派に分かれた戦いは、義統派が勝ち、義統は若狭守護になりました。 しかし、この争いの結果、多くの家臣は武田家の支配を離れてなかば独立し、信豊派の粟屋勝久は三方郡で、また逸見昌経は大飯郡で影響力を強め、義統に従いませんでした。 永禄4年(1561)、逸見昌経と粟屋勝久は、丹波国(現在の京都・兵庫北部)守護代松永長頼と結び、逸見氏の居城である砕導山城(現在の高浜町)で反乱を起こしました。武田義統は、親戚関係にある隣国越前の朝倉氏に助けを求め、1万数千の軍勢で砕導山城を包囲しました。その結果。昌経は城から逃れましたが、大勢を立て直して新たに高浜城を築き、永禄9年(1566)に再び反乱を起こします。

国吉龍城戦

逸見昌経とともに砕導山城で武田義統に反抗した粟屋勝久でしたが、戦いに敗れ、昌経は砕導山城を捨て、勝久は本拠の国吉城に戻りました。 昌経を取り逃がした義統は、逸見氏が再び反乱を起こすのではないかと警戒して小浜を動けずにいました。そのため、国吉城に戻った粟屋勢に対しては、永禄6年(1563)、朝倉勢が義統の代わりに、若越国境を越えて国吉城に迫りました。勝久は、三方郡の地侍や農民らとともに国吉城にたてこもって迎え撃ち、ついには朝倉勢を追い返しました。その後もほぼ毎年、朝倉勢が攻めて来ましたが、そのたびに、粟屋勢はねばり強く抵抗し、城を守りきりました。 永禄11年(1568)、またもや朝倉氏が若狭国に侵入してきましたが、国吉城を素通りして、遠敷郡に向かい、小浜にいた武田家最後の当主をなる元明を一乗谷へ連れ帰ってしまいました。この時、越前に向かいながら、元明は粟屋勝久に、朝倉氏に降参するよう命じましたが、勝久はこれに応じませんでした。 江戸時代の初め、粟屋方として戦いに参加した佐田の田辺半太夫安次が、この戦いの様子を軍記物にまとめました。小浜藩主に献上した『国吉城之記』と題するこの軍記物は、その後、多くの人々に写しとられ、世に広まっていきました。

織田信長の登場

国吉龍城戦が始まる3年前の永禄3年(1560)、尾張国で大きな戦がありました。当時、天下統一に最も近いといわれた駿河国の戦国大名今川義元が、大軍を率いて尾張国に攻め込んできたのです。尾張国を治めていた織田信長は奇襲戦法により今川義元を討ち取り、一躍天下にその名を知られるようになりました。 その後、信長は三河国の徳川家康と同盟を結び、美濃、北伊勢に勢力を広げ、北近江の浅井長政には妹(お市)を嫁がせて親戚関係を結び、永禄11年(1568)には、足利義昭を援助して京に上りました。室町幕府15代将軍になった義昭の名前を使って、信長は各地の大名に京に集まるよう命じましたが、越前の朝倉義景だけは従いませんでした。

金ヶ崎の退き口

元亀元年(1570)4月20日、越前朝倉氏を征伐するため京都を出陣した信長の軍勢は、近江国を経て22日には若狭国熊川に着きました。翌23日、熊川を出た軍勢は丹後街道を北上して佐柿に着き、信長は国吉城に入りました。城主の粟屋勝久は、城内を払い清め、倉見峠まで信長を出迎えたといいます。この時、信長には家康や秀吉もつき従っていました。 国吉城に入った信長勢は、4月25日に敦賀郡になだれ込み、瞬く間に朝倉氏の拠点である手筒山城を攻め落とし、金ヶ崎城を降伏させました。 しかし、軍勢を整えて一乗谷の朝倉氏の打倒を目指す準備をしていた信長のもとに、妹婿である浅井長政が裏切り、背後を襲うために小谷城から出陣したとの知らせが入りました。信長軍は急ぎ撤退することとなり、軍勢の最後尾で追っ手から味方を守る殿軍には、木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)の隊が選ばれました。のちに、この木下隊の活躍は、「金ヶ崎の退き口」と称賛されました。

天下布武への道

やっとのことで逃げのびた信長でしたが、すぐに体制を整えて、元亀元年(1570)6月、近江国姉川において、徳川勢とともに、浅井・朝倉連合軍をいったん打ち破りました。 しかし、信長が自分を大切にしないことに不満をつのらせていた将軍足利義昭が、信長を討つよう、各地の大名に命じたため、信長は四方から敵に囲まれる状況になってしまいました。そして、石山本願寺や毛利、武田、浅井・朝倉が、次第に信長包囲網を狭めていきました。 これに対し、信長は浅井・朝倉勢に味方する京都の大寺院、比叡山延暦寺を焼き討ちにしました。また武田信玄が病で亡くなったこともあり、ついには将軍を京都から追放して室町幕府を滅亡に追い込みました。 包囲網を崩した信長は、天正元年8月(1573)、再び浅井氏を小谷城に攻めました。そして、援軍に駆けつけた朝倉勢を追いかけて一乗谷まで攻め上がり、ついに朝倉氏を滅ぼしました。 この一乗谷攻めのとき、国吉城主粟屋勝久もともに攻め込み、一乗谷から弘法大師筆と伝えられる五百体愛染明王図や青磁浮牡丹皿を持ち帰り、佐柿の青蓮寺に寄進しました。 信長軍は、すぐさま小谷城にとって返して激しく攻め立て、浅井氏も滅ぼしました。 その後、信長の「天下布武」(武力で天下統一を果たすこと、信長はこの言葉を印鑑に使用した)はとどまるところを知らず、甲斐武田氏を攻め滅ぼし、上杉氏の領地を攻め取り、中国の毛利氏には、木下藤吉郎から名前を改めた羽柴秀吉と、明智光秀をむかわせるなど、天下統一を進めていきました。

その後の粟屋氏

織田家の家来となった勝久は、信長の死後行われた賤ケ岳の合戦のあと、大阪に召し出されて豊臣家に仕え、天正13年(1595)に亡くなったといわれます。息子の勝家は、大阪の陣を前に亡くなり、その子助太夫は、大阪の陣の後に伊勢国津城主藤堂高虎に仕え、子孫は津藩士となりました。